CPUとマイクロソフト社の誕生

パソコンの仕組み

パソコンの性能を決める重要なパーツであるCPU。それはいかにして作られたのでしょう。

大型のコンピューターにはすでにCPUと呼ばれる部品がありました。

最初に個人用パソコン向けのCPUを開発して販売したのは、アメリカのIntel社です。

しかし、実はCPU誕生のきっかけは、日本から始まっています。

どういうことなのか、それについて今回は語っていくことにします。

きっかけは日本の“電卓戦争”

昭和39年(1964年)に、早川電機(現在はシャープ)という会社がある商品を世に送り出しました。

それは電卓です。「CS-10A」という商品名で呼ばれています。

電卓と言っても、現在私たちが使っているものとは形が全く異なります。まず、重さが20キロあります。とても持ち運べるものではありません。

現在のパソコンに似た形をしており、価格は53万5000円という当時は一般家庭にはとても手が届かない、業務用の機械だったのです。

自動で計算ができる機械は企業や研究機関の間では非常に重宝されました。CS-10Aもそういったところには、たくさん売れて大きな利益を生み出したそうです。

そうなると、ほかのメーカーも「電卓は売れる」と踏んで、こぞって電卓の開発に乗り出しました。今では電卓で有名なメーカーであるカシオ計算機が電卓の開発を始めたのは、このころだそうです。(それ以前にも、現在の電卓とは異なる形状の計算機の販売はしていました)

多くのメーカーが電卓の開発、販売を行いそのシェアを巡って熾烈な競争を行っていました。この現象のことを電機業界の間では、電卓戦争と呼んでいます。

売れる電卓を作るためには、開発コストを下げて低価格にすることと、電卓自体の小型化が必要でした。当時の電卓は、計算を行うための計算式をLSIとROMという部品に内蔵していました。

LSIとは半導体集積回路という電子部品の一種で、商用CPUの誕生前の時代では、一般向け電子機器の中枢を担う部品でした。ROMとはパソコンでいうメモリのことです。

計算式をLSIとROMに内蔵しているということは、新しい電卓を作ろうとすると、LSIとROMというハードウェアを一から開発し直さなければならないということで、それには高いコストがかかります。そのため、電卓のさらなる低価格化のためには、これをなんとかしなければいけません。

そこで、ビジコンという会社が発案したのがプログラム内蔵方式です。計算式をROMの中にソフトウェアとして書き込んでおき、新しく開発する際にはソフトウェアの書き換えだけで行えるようにすることで、新しい電卓の開発にかかるコストを抑えるという考えです。

ビジコンは、これを実現するためのLSIの開発を引き受けてくれる半導体メーカーを探しました。しかし、アイデアを受け入れてもらえず、結局日本からは開発をしてくれるメーカーは現れませんでした。

そのためビジコンが手を組んだのが、アメリカのIntel社だったのです。当時のIntelは、まだ小さい半導体メーカーでした。

紆余曲折あって、開発はなかなか進まなかったのですが、ある時Intel社の方から「大型コンピューターに使うCPUのような部品を、電卓のために作ってみようか」という提案がなされました。

それを基に、ビジコンとIntelが共同で開発を進めて完成させたのが、世界初の商用CPU「4004」なのです。

厳密に言うと、「4004」はマイクロプロセッサーと呼ばれる機械なのですが、現在ではこれもCPUと呼ぶのが慣例になっています。

ビジコンは4004を搭載した電卓「141-BF」を販売しました。プリンタ付きの高機能な電卓で、価格は159,800円でした。電卓が一般家庭向けの商品になるのは、まだ先の話です。

世界初の商用CPUは世界初のパソコンに

Intelとビジコンが開発したCPU「4004」は、電卓用として成功しました。これに可能性を見出したIntelは、ビジコンが持っていた4004の独占販売権を、ビジコンと交渉の末に買い戻しました。

ここからIntelは、世界一のCPUメーカーとなる第一歩を踏み出したのです。

ビジコンはその後も、電卓の開発で他社と競争していたが、カシオ計算機などのライバル社に業績で勝てず、オイルショックによる円高で輸出が激減したことから、1974年に倒産してしまったぞ。

1972年、Intelは4004の次世代機となる「8080」というCPUを発表しました。その3年後の1975年に、MITS社が販売したパソコン「Altair 8800」というパソコンのCPUに「8080」が採用されました。

Altair 8800は世界初の商用パソコンと呼ばれることもあります。コンピューターが大型で企業や研究機関が使う物だった時代に、安価で(一般家庭にとっては高級品ではある)個人で利用できるコンピューターということで、Altair 8800は注目を浴びました。

Altairという名前は当時アメリカで放映していたSFドラマ「スタートレック」に登場する、惑星の名前が由来とのことだぞ。

世にパソコンという機械が登場し、MITS社以外の電機メーカーもパソコンの開発に着手し始めました。それらのメーカーもCPUに8080を採用したため、Intelは大ヒットを生み出したのです。

実は、この8080の設計の中心となったのは、元ビジコンの社員で4004の開発でも中心人物だった、日本人のエンジニア嶋正利氏なのです。

8080というCPUを活躍させるために生まれたマイクロソフト

Altair 8800はパソコンではありましたが、その形は現在我々が使っているものとは全く異なります。

まずディスプレイがありません。キーボードもありません。もちろん(?)マウスもありません。ではどうやって動かしていたのでしょう?

本体にたくさんのスイッチがあり、それのオンオフを切り替えてLEDランプを点けることで計算結果を示していました。ゲームなんてできそうにないですね。

著作権者:Sobi3ch~commonswiki ライセンス:CC by-sa Sobi3ch~commonswiki ウィキメディア・コモンズ.

↑実際のAltair 8800の画像です。

そんな構造であるがために、実はAltair 8800は「8080」というCPUが活躍するプログラムを動かす事ができなかったのです。

そこにチャンスを見出した人たちがいました。MITS社にAltair 8800向けのプログラムその名も「Microsoft BASIC」を売り込みに来た人が現れました。

その人たちはビル・ゲイツポール・アレンです。彼らはIntelのCPU8080で動かせるプログラムを作ることを目的に、マイクロソフト社を創業したのです。

マイクロソフト社は「Microsoft BASIC」を、8080を搭載したパソコンを販売している会社に使用する権利を売って、パソコンが売れるごとにロイヤリティを受け取るという契約を結びました。このビジネスモデルは、WindowsというOSの販売をしているマイクロソフト社の現在に至るまで、変わっていないのです。

実はコンピューター史に深く関わっている日本

コンピューターとは、外国で技術開発されて日本は輸入しているだけ、というイメージがあるかもしれません。

しかし、商用パソコンに使われる部品である商用CPU(マイクロプロセッサ―)の発明には、日本の企業であるビジコン、日本人のエンジニアである嶋正利氏が深く関わっているということは知っていても損は無いでしょう。

さらに商用CPUの開発が、後に世界のパソコンの8割に採用されるOSを生み出した会社、マイクロソフト誕生のきっかけにもなっていることはとても印象深い事実です。

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